前回は、妊娠から出産までを振り返ってみました。
今回は産後から復帰までをご紹介します。
前回の記事
【産後~復帰】
両家祖母とも頼れない状況だったため、里帰りせず、夫と二人、自宅での育児がスタート。
家事がなんでもできる夫で、育児についても常になにかできることがないか気を張ってくれていたので、「もう、旦那がなにもしてくれないのよ!」みたいなストレスは皆無だった。 が、切れた乳首に馬油クリームを塗り、分娩時にできた切れ痔にボルタレンサポを突っ込みながら、全く意思疎通がとれない新生児と二人きりで部屋にこもっていると、さすがに病んできた。
いわゆるマタニティブルーってやつだ、とわかっていながらも、日に日に気持ちが遊んでいくのが自分でもどうしようもなかった。
17時に鳴る「カラスと一緒に帰りましょ~」の音が怖くなる。あ、もう夕方か。でも赤ちゃん泣いてるから夕飯の準備できない。今日まともに会話したのは、荷物を届けてきたクロネコヤマトのお兄さんだけだわ。
ってか今日何したっけ私。
おむつかえて、おっぱいあげて・・・これだけじゃん。何してんだろ。子どもを育てるという一大社会貢献をしているはずなのに、自分が何もしてない、役立たずだという思いにさいなまれる。
一方で夫は、偶然にも転職の時期にあたり、なんだか気分も新しく、楽しそうに仕事をしているように見える。そのうち夫が立てる音がうるさく感じるなど、夫に対する気持ちが変わっていくのも感じて、自分も寂しくなった。
そんな気持ちで子どもを見ていると、いろんなことも気になってくる。
あれ、いま白目向いたけど大丈夫?てんかん?「赤ちゃん 白目 てんかん」あ、結構みんな同じ感じなんだ。よしよし。
あれ、このお腹の斑点大丈夫?カフェオレ斑?みんなあるものなの?神経線維腫症?「赤ちゃん カフェオレ斑」・・・小児科医なのにGoogle先生に助けを求める、情けなさすぎる育児である。
ゲップの出し方もわからず、布団たたきのようにバンバン背中を叩いていたが、本当はそっと優しくトントンして縦抱きにしてあげれば良いというのを知ったのは1歳くらいでとっくに授乳を終えたあとだった。息子ごめん。
そのうち生後2ヶ月くらいになると、いわゆる黄昏泣き・コリックがはじまった。夕方になると、何をしても、泣きわめいて手がつけられない。抱っこしてもだめ。おむつ変えてもだめ。おっぱいあげようとしてもだめ。もういいや!となってベッドに置いてみてもだめ。
仕方なくベッドで泣かせたまま夕飯の準備にとりかかるが、泣き声が耳について離れない。うるさすぎて、隣の部屋の人から虐待って思われないかしら(ちなみに同僚の小児科医は2人の子どもがいるが、夕方あまりにギャン泣きするので、隣人に通報されて、子どもの誕生日に、児童相談所から職員が訪問しにきた)。これって後々トラウマになったりするのかな。とにかくものすごいストレスである。
・・・「働きたい」。
まず単純に外に出たい。そして大人と喋りたい。できれば家族以外の第三者に対して、なにか貢献しているという実感が湧くようなことをして、もしそれに対してお金が支払われるなら万々歳。
そもそもいつ産後復帰するかは決めていなかったが、夫にも気持ちを伝えたところ「おお、いいじゃん。働いてるほうが楽しそうだよ。」と二つ返事でOKしてくれた。
早速、上司にも連絡。職場の保育園も「明日からでもいつでも来ていいですよ~」と万全のウェルカム体制。
こうして生後2ヶ月半から慣らし保育、生後3か月から私の職場復帰が決まったのである。
【復帰、魔の6か月へ】
保育園の先生はみんな天使かと思うくらい優しく、息子も生後2ヶ月半でまだ人見知りもしないため、保育園には気持ち的にもスムーズに預けられた。
2週間の慣らし保育を終え、いよいよあさってから復帰
・・・というところで、まさかの発熱。
えー、生後2か月の発熱とか、救急に来たらがっつり検査するやつじゃんと思ったが、いかんせん息子はグビグビ母乳を飲んで笑っている。
なんか風邪っすかね~なんて園の先生と能天気に話していたが、復帰当日、発熱3日目を迎えてしまった。
上司に伝え、復帰当日ではあるが、とりあえず息子をつれて外来へ行き、必要な検査をすることになった
・・・結果、ばっちり尿路感染症になっていた。
初期研修医がルート採取にトライするも、今日から小児科回ってきましたという研修医が、ムチムチ2か月の子どものルートを取れるはずもなく「先生すみません!無理っす!」と頭を下げてきた。
というか、母でありかつ上級医である私が後ろに立っているなかで、ルートを取らせるという精神的にもかなりプレッシャーを与えてしまい、むしろ申し訳なかった。
というわけで、私の復帰第一号のルートは我が子の左手背であった。
勤務先の病院にそのまま入院することに。思いがけず、看護師長をはじめスタッフに、息子の顔見せをする機会となった。
ここでまた私もドライなのだが、迷うことなくお預かり入院(親が付き添わない)を選んだ。
息子よ、「これは寝られるチャンスだ!」と思った私をゆるしていただきたい。大腸菌と戦う息子を病院に残して、帰り道に夫と食べた家系ラーメンは美味しかった。
幸い息子はすぐ回復し、私も翌月からは当直にも復帰した。4か月、まだ夜中の授乳も必要な時期であったが、夫は子どもの泣き声でちゃんと起きてくれるので、そこは心配なかった。
むしろ私のおっぱい事情が大変であった。外来や当直の合間に、便座に座って電動搾乳機でウィーン、ウィーン、と乳を絞る。保存できる場所もないので、捨てる。忙しくて絞れないときは、おっぱいがビッグバンみたいに破裂するんじゃないかと思うくらい痛かった。
というわけで生後3か月の復帰はいろいろ無理があった部分もあったが、ブランクが少なかった分、仕事の勘を早く取り戻せたという点では成功だったと思う。あと結局子どもがいるといつ復帰しようが、その都度大変なことは出てくる。人見知りせず、まだ母体からの抗体もありウイルス感染は起こしにくい時期の入園という意味でも、プラスだったのではないかと思っている。
【魔の6か月】
生後5か月頃に自然に断乳、いわゆる魔の6ヶ月を迎えた。なにが魔かというと、とにかくウイルス感染にかかりまくる。
RSウイルス、手足口病、突発性発疹、アデノウイルス・・・
とりあえず、名のつくウイルスは6か月~1歳の間に制覇した。熱が出るたびに「何がでるかな~」と迅速検査キットを息子の穴という穴につっこんで、もはや楽しまないとやっていけないレベルであった
。
朝めっちゃ元気だったはずの息子を送り出したはずなのに、その15分後にはPHSが鳴り「お熱があるので、お迎え来られますか」。
この頃の私はPHS恐怖症になっていた。よく初期研修医で、病棟からのPHSが頻繁になるのが怖いというのがあるが、私は保育園からのPHSが恐怖だった。
ただし恵まれていたのは、自分の勤務先の病棟が使えることだった。職場の保育園まで駆けつけて息子を引き上げた後、部屋があいていれば、病棟で仕事が終わるまで入院という形で預かってもらっていた。
ただ、その間仕事は全くできないし、その後も廊下にも響く自分の子どもの泣き声を聞きながら、仕事するのは精神的に結構ぐっと来た。翌日以後も発熱が続くことが多かったので、熱が出た日は15時以後になると、ウェブから病児保育を申し込む。バカにならない代金だが、1週間ずっと仕事を休むわけにも行かないので、背に腹は代えられない。
同じ頃離乳食が始まったが、自慢ではないがほとんど作らずレトルトに頼った。離乳食作ってるの日本ぐらいだよ!と昔どこかでまた聞きしたのをいいことに。息子はこうして、和光堂と保育園のおかげですくすくと育っていった。
【独身未婚女医のなかで働く・・・二人目へ】
生後10か月くらいになると、ぐっと発熱の頻度も落ち着いた。
が、私は非常に周りに気を使っていた。
というのは、より急性期をみる病院に出向していた時期なのだが、若手の女医はすべて独身未婚であったからだ。
女医はすべてママさんという自分の職場と違って、子育てトークはできない。
お見合い写真ってどこで撮るのがいいの?青山のスタジオがいいみたいよ!お見合いサイトは何に登録した?などの会話に、適度にあいづちを打つ。
17時になると、各所に頭を下げてまわりながら息子の迎えに走る。なんだか神経をすり減らす毎日であった。
そんな中、息子は1歳になり、「まま!ぱぱ!はっぱ!」など一語文が炸裂。早期復帰した点数があったからか、早生まれにもかかわらず、無事に自宅近くの保育園も決まった。
出向も無事に終わった・・・と思ったら、二人目妊娠が発覚。またもやバタバタの妊婦ライフが始まったのである。
・・・お宮参りもお食い初めもせず、レトルトと保育園に頼りきりの育児であったが、現在2歳の息子は、息を切らしながら多語文で一日の様子を伝えてくれる、笑いの沸点の低い幸せな子に育っている。
産後は、養育に不安の強い家庭に対する育児支援を外来で担当するなど、自分の経験を活かす仕事もさせていただいている。
特にあの17時の鐘を虚しく聞いていた経験から、いかに専業主婦が尊敬に値する立場かを痛感し、外来でもお母さんたちを自然と褒め称えるようになった。
医師として働きながら、妊娠・出産・復帰することは、楽ではない。自分の努力ではどうしようもない、家族や職場の理解も必要。
でも、感謝と気概で乗り切っていくうちに、自分の視野が広がり一皮むけ、社会に貢献できている実感、自信が湧いてくる瞬間がある。この瞬間を、私は今後も、多くの女性医師と分かち合っていきたい、そして職場に還元していきたいと思っている。
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